無の会に辿り着いた人々 前編
インタビュー/無の会メンバー
福島・会津にある農園「無の会」。
ここには、さまざまな背景を持つ人たちが、それぞれの理由と覚悟を抱えて集まっています。
都市で働いていた人、大学で研究していた人、家業を継いでいた人。
迷い、病、違和感、直感——さまざまな入り口から、この場所に辿り着きました。
それぞれの物語をご紹介します。

「病気を治すのはお米だ、と直感した」花粉症から始まった農業との出会い
岡本照正
無の会での暮らしは、2026年の4月で丸12年になります。
最初の7年は、じいちゃんばあちゃん世代ばかりの中、20代は僕ひとりでした。
無の会を知ったきっかけは花粉症です。
ひどい症状に悩まされて色々調べていたところ、たまたまネット上の健康食品サイトで無の会のお米を見つけました。
“病気を治すのはお米だ”って、なぜか直感したんです。
それから無の会のお米を定期的に買って食べていたんですが、それだけで花粉症が治るわけじゃなかった。それなら、無農薬農家の環境に身を置けば、必然的に食生活が変わって体も変わるんじゃないかと思いました。
地元は筑波です。花粉症のない地域を求めて、大学受験先を選んでいました。
会津の大学を受験した日、たまたま雨で花粉症の症状が出なかったので、ここは大丈夫だろうと思って来たんですが、結局花粉症は続いています。(笑)
無の会には2014年の春からお世話になっています。大学に籍を置きながら2年間インターンとして住み、結局大学には戻らず、中退してここに残りました。
社会の仕組みだけでなく、地球や自然界、宇宙の真理そのものを探究できる生業を
宇野宏泰
僕が農業に興味を持ったのは、「自然界の仕組みを知りたい」という思いからでした。
自然はどんな法則で動いているのか。
世界はどのようにできているのか。
そんなことに、中高生の頃からずっと興味があったんです。
大学ではアメリカで社会科学を学び、その後は日本で一橋大学のビジネススクールに関わりました。経営学者・野中郁次郎先生の研究助手として、本の英訳や校正の仕事をしていました。
そこで繰り返し教えられたのが、「現場が大事だ」ということでした。
身体性、共感、大義。
何のためにビジネスをするのか。
そういうことを研究していたんですが、当時の自分は、むしろ現場から一番遠い場所にいた。このままアカデミアに進んでも、世間を知らないまま研究者になるのではないか。
そんな違和感がありました。
その後、スタートアップや小さな事業を手伝うフリーランスとして働き始めました。
生活はできるけれど、どこか低空飛行のまま。このままでいいのか、という感覚がありました。
そこでヨガや瞑想を始め、自分の内側を見つめる時間を持つようになりました。
インドのヒマラヤで、数日修行や瞑想の作法を学びに行ったこともあります。
ベジタリアンになり、お酒もやめて、毎日瞑想する生活を一年ほど続けました。
その頃に読んだのが、福岡正信さんの『わら一本の革命』でした。
社会の仕組みだけでなく、地球や自然界、宇宙の真理そのものを探究できる生業はないだろうか。
そう考えたとき、農業という仕事が浮かびました。
自然栽培を実践する農家を全国で30軒ほど訪ね歩き、その最後に辿り着いたのが無の会でした。
初めて来たのは2020年の11月。
翌年の2021年から会津に移住し、今年で6年目です。
現在は、無の会の外部とのつながりを担う役割も担っています。
2023年には「株式会社ZEN-BU」を立ち上げ、その代表も務めています。
また今年からは、昭和村で新しい田んぼづくりも始めました。
水源の最上流に近い場所で、不耕起栽培による無農薬の稲作を中心にした農業を構想しています。
無の会という拠点だけで人が増えるよりも、
別の場所でも同じ思想を持つ人が集まり、広がっていく方がいい。
そんな思いで、新しい挑戦を始めています。

大学の研究が農家のためになっていないならば、僕は農家のためになることをしたい
大島武生
僕は京都大学の農学部で農業を学んでいました。
植物工場について勉強しようと思っていて。当時は「人工光と液体肥料、万歳」という考えだったんです。
日本で一番利益率が高い植物工場が京都にあって、見学に行きました。レタスを土を使わずに育てる工場。
でも現場を見に行ったら、周りには耕作放棄地が広がっているのに、その真ん中で煌々と輝くでっかい建物。高収益、高効率なのは分かるけど、輸入資源やエネルギーを使いすぎていることに気づいて、これじゃない、と。
大学の研究が農家のためになっているわけではないと気づいて、農家のためになることをしたいと思ったんです。それで、日本各地の農家を巡るうちに、自分も農家を志すようになりました。
ある日、京都で酒を飲んでいた時に、宇野くんの活動(サマースクール)の教え子が無の会について教えてくれました。
初めて無の会に来たのは、大吹雪の日でした。電車が途中で止まって、宇野くんに車で迎えに来てもらった。
ここは児島先生が良いビジョンを持って20年前に始めたこと、岡ちゃんが馬車馬のように働いていること、宇野くんが外から情報や新しい視点を持ってくること。この三者がいる農園って少ないなと思ったんです。
ここなら、児島先生がずっと言っている「農業革命」っていうのが実現できるのかもしれない、と。農業界全体のことも考えて、現場もちゃんと頑張ってて、両方、視野が広いのがいいなと思って、じゃあ移住しようと思って引っ越して来ました。
京都で軽トラを買って、お気に入りのお酢屋さんの黒酢40Lと、大学時代に育てた野菜の種たちを積んで、数日かけて会津にやってきました。
到着したのは3月11日。
卒業式にも出席せずに、翌日から農業をはじめました。
自分で作った野菜を、自分で料理するということを続けたかった
安田志穂
最初に無の会を知ったのは、「民報サロン」つながりでした。
福島民報という新聞で、地域の若者がリレー式にコラムを書く企画があり、私は喜多方代表だった。
ある日、土方の兄ちゃんみたいな人が実家の旅館にやって来て。
「僕たち民報サロンの同期ですよ」って言われたんだけど、お互い他の人のコラムを読んだことはなかった。それが、宇野くんとの出会いでした。(笑)
話していたら、無の会を作った児島先生が私の高校の先生だったことが分かった。 高校は四角い校舎で真ん中に中庭があって、ウサギが30匹くらいいたんです。私は友達があまりいなくて、よくウサギと遊んでいました。
その横の小部屋でいつもサボっていた先生が児島先生だった。ウサギつながりですね。(笑)
それで初めて無の会に来ました。
その時は則子さんがいて(児島先生の奥様。2024年に永眠)、ぱっと見た時に、ずっと一人で料理をしてるし、誰もあんまり気にかけてなくて、なんかその絵面がちょっと気になって。
それで、「私が料理しますよ」って手伝うようになった。「その間、則子さんは休んで、好きなことをやって良いから」って。そんな風に、月に1、2回お手伝いに来るようになりました。
そんな関係ができつつ、その間に実家の旅館をクローズしたんですね。
私は4代目の若女将をしていたんですが、建物の老朽化もあって閉めることになり、無職になった。ずっと自分で野菜を栽培して、それを料理していたんで、どっちもやり続けたくてここに来たんです。
それに加えて、飼っているヤギが頻繁に脱走するので、その度に帰ることを許してもらえるような職場を探しました。笑
当時は則子さんがずっと野菜のお世話をしてくれていたから、そのお手伝いから始めました。
そうやって畑の規模がどんどん大きくなっていって、もう一箇所、ここから車で30分くらいのところに畑があり、そこではヤギのうんちを使って野菜を栽培しているんです。
元々、飼っているヤギのうんちをどうしようか、と思っていて。農業をやっているおばあちゃんに聞いたところ、ヤギのウンチだったらそのまんま畑に置いても大丈夫だって。草を食べているし、形状もポロポロしてるし。畑の上に撒くようにしている。
ただ、おしっこの成分は抜かないと土が窒素過多になってしまうので、うんちを畑の端に溜めておいて、何度も雨と太陽光に晒してから使うようにしています。
(志穂さんは2025年7月に無の会を卒業)

それぞれの入り口から、同じ土へ
無の会のメンバーは、それぞれ得意なことや経験を活かしながら役割を分担しています。
お米、野菜、穀物。
地域や外部との接続、裏方、整備、料理。
入り口は違っても、 それぞれが「農業界全体をどうにかしたい」という思いを持っている。
同じ土の上に立ちながら、それぞれの物語は続いています。
writer:Kyeonghwa HO