Vivobarefoot JAPAN

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Vivobarefootとの出会い

僕がVivobarefootの靴に出会ったのは、千代田くんと小峯くんが二度目に雲ノ平山荘に遊びにきてくれた時だった。前年に来たときも彼らはVivoを履いていたのだろうけど、その日に知り合ったばかりで、たまたま多くの関係者が山荘に集っていた日だったから、履いている靴にまで目が向かなかったのかもしれない。

ともあれ、はじめてVivoの靴をしげしげと眺めた時、僕は素直に嬉しくなった。そして静かな納得感のようなものに包まれた。

「ようやくこういう感じ方が形になったのか」

そんな思いがあった。

はじめて見たというのに、どうしてそんな馴れ馴れしい想いを抱くのかと訝しがる人もいるだろう。実を言うと、僕自身もそれまで長い間、似たような靴を愛用していたのである。

でもそれは、Vivoのように美しく完成された靴ではない。そればかりかアウトドアギアでも、スポーツ用品ですらもない。

その靴とは、職人の上履きのようなものである。きっと多くの人はホームセンターなどで見たことがあるだろうが、地下足袋と同じ素材でできていて、より簡便なつくりのズック靴といえばイメージできるかも知れない。値段は当時(15年ほど前)で約五百円程度。

「ズック靴」を履いていた理由こそが、Vivoに共感を覚える理由そのものだったのだ。

どういうことか、まだ不思議に思う人も少なくないかも知れない。しかし、ズック靴とVivoにはいくつもの共通点がある。

ソールが薄いこと、質量が小さく着用感があまりないこと、関節の動きを阻害しないことなど、さまざまな点が挙げられるが、今回は、そうした言葉による解説を掘り下げる前に、なぜ僕がズック靴を履くようになったかを話してみたいと思う。

なぜズック靴だったのか

これも簡単な話で、雲ノ平で生活をするうちに、僕は次第に重い登山靴を履けなくなっていったのだ。一時は僕も「丈夫な登山靴」を履いていた時期もあったのだが、登山靴がゴツゴツと岩を弾く感覚や関節の動きを抑制するホールド感などに、身体が拒否反応を示すようになった。

身体が求める動作と、登山靴という道具のレスポンスが全く一致しない。どうすればよいのか。

その感覚に従って靴を変えていくうちに登山靴が少し軽い登山靴になり、長靴になり、地下足袋になり、ズック靴にたどり着いたのである。

今や知らない人も多いかもしれないが、20年くらい前までは、重い登山靴が過度に重視され、ある意味で聖域化していた時代が確かにあった。

日本の登山文化といえば、重い靴を履くのが当たり前だし、そこで手を抜くと「山を舐めている」と、見知らぬおじさんに叱られたものである。しかし、山の生活者の思いとしては、そんなことは関係のないことだった。

歩きづらいものは歩きづらいし、そこで無理をしても生活に支障が出るだけだ。

山小屋で日常生活を送ることと、登山を非日常の特別なアクティビティーとして「満を持して」山に挑もうとするのでは、大きく感覚が異なる。

旧来の「登山」的な思考では、山行中に想定し得る最大のリスクにそなえることや、エクストリームな環境への対応、あるいは日本が輸入したヨーロッパの近代アルピニズム的なスタイルへの傾倒など、良くも悪くも日常生活の外にある冒険への憧れと不安を、最大に膨らませた上で旅の装備を揃える傾向が強かった。またアルピニズム的登山の「ステップアップ思考」のようなものも影響していたかもしれない。

低山の後は高山、日帰りの後は縦走、荷物は徐々に重くなり、夏山のあとは残雪期、残雪期の後は冬山。。。というように、常に難しさを上位ステップとして捉える意識があったし、山岳部的(体育会的)な文化として、先輩が新参者の無知を正すという雰囲気が強かったのものだ。

夏でも氷河の上を歩く機会があるヨーロッパの登山スタイルを、ある種の固定観念として前提にしてしまっている節もあっただろう。

こうした事の結果として、ある時期まで「丈夫な登山靴」が聖域のような存在になっていたわけである。当然僕は、その風潮には乗りようがなかった。

歩くことの喜び

さて、ズック靴を履くようになったことで何が変わったのか。

純粋に歩くことが非常にたのしくなった、ということが言えると思う。

地面と対決するような不自由さは無くなり、地形や地表面の状態に応じて細やかに歩き方を調整する感覚が研ぎ澄まされた。そして、格段に早く歩けるようになった上に疲れづらくなり、身体のバランスも改善された。

こうした実感を積み上げるごとに、重い登山靴に関する考え方も整理されていった。

つまりは以下のようなことだ。

  • 硬い登山靴のソールはいわば板を履いて歩いているようなもので、特に不規則な形が連続する岩場の歩行では靴と岩の接地面が点状になり、きわめて不安定。また、濡れた木道などの硬くて平らな足場でも、接地面が点状になることでスリップしやすい。
  • 足首を固める靴は、足首や足裏(土踏まず)の運動機能を失わせてしまうため、膝関節と大腿筋だけで歩くような形にしてしまう。結果として疲れやすい歩き方になる。
  • 足首を固めることが安全性を向上させるという考え方が広く共有されていたが、そもそも上述のように点状の接地面ゆえの不安定さや、太腿の疲労の蓄積しやすさなど、結果的に怪我を招く条件そのものを増やしてしまう。現に、雲ノ平で転倒による怪我をする登山者に硬い登山靴を履いている人が多いという実体験もある。
  • 厚いソールが足裏感覚を失わせてしまうため、明らかに安全なポイントにしか足を運べなくなる。そのため地表面の状態に合わせた歩き方の調整ができず、そもそも地面への感性や判断力が身につかない。その分歩行の効率やスピードも落ちる。

それに対してズック靴には、以下のようなことが言える。

  • ソールが薄く、足裏感覚でダイレクトに地表の形や滑りやすさなどの微細な状態を感じることができる。また、足指、土踏まずや足首のしなやかさをつかって不定形な地形を捉え、常に接地面を最大化させる歩き方ができるため、安定性が大きく向上する。
  • 地表面の状態への感度が高まり、繊細かつ思い切った足運びができるため、歩行の効率・スピードがあがる。
  • 足のすべての関節や筋肉を駆使して歩くことによって、どこか一部分だけに負担が生じるということがなくなる。
  • これら全ての条件により、スリップによる怪我のリスクも軽減する。
  • また、環境保全活動を行っている立場として付け加えたいのは、硬いソールの靴よりも、柔らかいソールの靴の方がはるかに土の地面への当たりが優しくなり、登山道の荒廃(土壌侵食)を起こしづらくなるということも言える。

もちろん雪山や、重荷を担いだ縦走登山での重登山靴の優位性は疑うべきことではないが、無雪期のハイキング、とりわけ足場の不安定な岩場や、真っ平らな木道などでの登山靴の使用はデメリットが上回るのではないか、というのが僕の導いた答えである。

唯一の心配として、木綿のアッパーと薄いゴムのアウトソールだけでできているズック靴の強度は高いとはいえないので、長距離山行時には予備のズック靴を携帯して歩いたものである。しかし、結局一度も途中で壊れたりはしなかった。

僕は、こうしたことを山荘のスタッフにもことあるごとに話すようになった。

そして、興味を持ったスタッフにもズック靴を用意したりするうちに、雲ノ平山荘では密かなるズック靴ムーブメントが起き、しまいには多くのスタッフがズック靴で辺りを徘徊するようになった。そして、これまたひそかに各地で厳格なおじさんに「山を舐めるな」という叱責を受けたスタッフがいたらしいことも、今から思えば懐かしい時代の一場面でもあった。

Vivobarefootへの共感

思いもよらず長くなってしまったが、僕がVivobarefootに出会ったときの思いはなんとなく察していただけるのではないだろうか。

僕が感じていたことが、この上なく美しく、より緻密に設計された製品として完成された姿がそこにはあった。

不覚にも、山小屋にいながらアウトドア業界に疎かった僕は、千代田くん、小峯くんに出会う前まではベアフットシューズの存在もほとんど知らなかったわけなのだが、図らずも時を同じくして世界中で同じようなことを感じ、その感じ方を製品に昇華する努力をした人たちがいたのだということに、深い共感と敬意を感じざるを得ない。

そして、金輪際僕がこのことについて屁理屈をこねる必要などないということもただただ嬉しいばかりだ。今やもうVIVOのスタッフのみなさんが、人間工学や運動生理学などの理論をもちいてより専門的に人々に伝え、体験を共有する機会を作り、僕が想像もつかなかった未知の可能性を日々更新していることを知っているのだから。

この度、千代田くん、小峯くんのご好意により、雲ノ平山荘がVivobarefootの体験施設として登山者に開かれることは、さまざまな意味において幸せを感じています。もちろんこの取り組みは、製品プロモーションという意味合いにとどまらず、身体と大地との対話を通じて改めて世界と自分自身をどのように感じるかという問い、つまり、アウトドアアクティビティーの本質的な価値と向き合う取り組みとして、大切に育てていきたいと思います。

雲ノ平山荘 伊藤二朗

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