経験を昇華させ
また歩き始める
北米の3大トレイル=パシフィック・クレスト・トレイル(PCT 約4,200km)、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT 約5,000km)、アパラチアン・トレイル(AT 約3,500km)、すべてを踏破した者を”トリプルクラウンハイカー"(またはトリプルクラウナー)と呼ぶ。総延長12,767km、累計標高は810km*におよび、認定ハイカーは全世界でもわずか765名(2024年時点)**。厳しい自然と対峙する強靭な体力はもちろん、長時間の孤独に耐える精神力も必要となる。
2019年にトリプルクランハイカーとなった河戸良佑(かわとりょうすけ)は、コロナ禍の3年を経て、2022年再びアメリカへと旅立った。アリゾナ州を縦断する1,280kmのアリゾナ・トレイルを歩くためだ。
イラストレーターとして活躍しながら、アパレルブランド「HIKER TRASH(ハイカートラッシュ)」をディレクションする彼を、人々はニックネームで「イワシくん」と親しみをこめて呼ぶ。気さくで飾らない性格の彼の周囲にはいつも友人が集う。
アメリカのロングトレイル上ではハイカー同士、互いをニックネームで呼び合うカルチャーがある。そして「イワシくん」のトレイルネームは「Sketch(スケッチ)」。距離を稼ぐために先を急ぐ他のハイカーたちをよそに、飄々と腰を下ろしてトレイルの雄大な風景をスケッチする彼の姿にぴったりな呼び名だ。
誰もが驚嘆する偉業を成し遂げながらも「歩くことは人生よりもシンプル」と語る河戸。彼をロングトレイルへと突き動かすものは。そしてトレイルで絵を描く意味とは。
「逃亡」がきっかけで出合った山
バックパッカーからの転身
──まずは自己紹介からお願いします。
河戸:河戸良佑です。36歳で、みんなからイワシと呼ばれています。兵庫県出身で、主にアメリカのトレイルを毎年のように歩いています。あとは自転車とか釣りとか、基本的に旅行が好きでアクティビティを探しながら日々を過ごしています。
──トレイルを歩くようになったきっかけを教えてください。
河戸:実は元々、本格的な登山はしていなくて。兵庫県の六甲山のお膝元で育ったので山遊びは好きだったけど、どちらかというと旅行が好きで。大学生の頃からバックパッカーとしてアジア圏を旅行するようになりました。
お気に入りだったのは、インドとネパール。特にネパールには何度も通ってました。冬の登山シーズンになると、宿代が爆発的に上がるんですけど、当時の僕は本当に貧乏で。お金がなくて道の側溝で寝ていたら(笑)、クリシュナさんというネパール人が声をかけてくれた。「1日3ドル払ってくれたら、暖かい寝床と食べ物を用意するよ」って。
クリシュナさんは商店の店主で、僕はツーリストを呼び込んで水とタバコを売る仕事を任されました。娘さん2人と息子さん1人がいる素敵な家族で、特にお母さんの料理が最高でした。
──ネパールでのホームステイが始まったんですね。
河戸:『ダルバート』というネパールの定番料理があって、食べ終わってもお母さんは、「(ごちそうさま)からの〜」ってさらに追加してくれる(笑)。ネパール語で「プギョ(お腹いっぱい)」って言っても2回くらい追加されて、毎日お腹がパンパン。そんなことを続けていると、消化不良で口から腐った卵の匂いのゲップが出るようになる。
このままだとネパールに殺される(笑)。かと言って親切なクリシュナさん一家を悲しませたくない。だから、「ネパールと言えば山だ」って理由をつけて「山が呼んでいる。行かねばならぬ」と伝えて家を出ました。首都のカトマンズで登山装備をレンタルして、初心者向けのランタン谷に向かったんです。
新しい旅のカタチ
トリプルクラウンを目指す
── すでにお話が面白すぎます(笑)。それからトリプルクラウンまでの道のりはどんなものだったんですか?
河戸:一度は普通の会社員になったけど、またバックパッカーになりたくなって。で、有給をつなげて旅してみたら、クレジットカードがあると昔ほどの冒険じゃなくなってて。なんの問題もなく普通に「旅行できてしまう」ことに拍子抜けしてしまった。それで、「もう一個ハードな、新しい旅って何だろう?」って考えていた時に、アメリカの三大トレイルの存在を知ったんです。
その中で最初に挑戦したのは、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)。PCTはカリフォルニア州とかオレゴン州とか知っている州を通っているし、バックパッカー時代に出会ったヒッピーみたいな人たちが歩いていたので、「これは自分にもフィットする、できるかも」って思って。ヤフオクでSix Moon Designsのテントとか、ULAのパックとか安く仕入れて、2015年に挑戦しました。
メキシコ国境からPCTを歩き始めて、初めてのアメリカだし、初めてテント張るし、英語も話せないし。それでもなんとかなるもんで、しかもすごい楽しい。自分が思った通り、登山というよりも旅だった。自分の足でずっと進んでいく要素もある旅で、テントを張るのも新鮮で、ドハマリしました。
最初にPCTを歩いたのが2015年。その翌年は歩かなくて、2017年にもうちょっと難しい5,000kmぐらいのコンチネンタル・ディバイドトレイル(CDT)に行ったら、やっぱり歩けてしまった。
三大トレイルのあと1個、アパラチアン・トレイル(AT)を歩けば、トリプルクラウンになれるってことで歩こうとしたんだけど、僕の性格上、一気に歩くってあんまり燃えないっていうか…。一回結構でっかい旅をしたら、それを消化する期間がないと次にのモチベーションがわかなくて。1年かけて絵を描いたり、自分の中で消化(あるいは昇華)する作業をして、2019年にアパラチアン・トレイルを最後の集大成として、無事歩いてトリプルクラウンになった。当時は日本人で9人目くらいだったと思います。
時間=距離、距離>お金
経験を活かしやりたいことを全部やる
── アリゾナ・トレイルでの目標はありましたか?
河戸:テーマは、「やりたいことを全部やる」。イラストレーターとしての仕事もあって、今までもトレイルで絵は描いてきたんだけど、それって結構難しくて。トレイルでは時間イコール距離で、距離はお金より大切な価値なので、それを絵に分けるというのが今まで難しかった。でも今回は絶対に歩ける自信があったので、絵を描く時間もしっかり確保できました。
もう一個の挑戦はUL(ウルトラライト)化。経験を活かして装備を極限まで軽量化しました。その中にはVivobarefootも含まれます。それまで靴のトラブルはほとんどなかったんですけど、コロナ期間中に履き始めたVivoをロングトレイルで使ってみたかった。それで自分の体がどんな風に変わっていくかということにとても興味があって、すごいワクワクして歩き始めた記憶があります。
初めてのロングトレイル失敗
コロナ禍で見つけた新たな挑戦
──2022年の春にあえて「アリゾナ・トレイル」を選んだのはなぜですか?
河戸:2019年にトリプルクラウンを達成して、2020年春には新しいチャレンジとしてヘイデューク・トレイルを歩こうと考えていたんです。グランドキャニオンを歩くトレイルで、CDTよりももっとハードなコース。アメリカ人ハイカー4人とチームを組んで攻略する予定でした。
でも、現地でコロナが爆発的に増えて、ロックダウンが始まる時期と重なってしまって。ちょうど日本にダイヤモンド・プリンセス号でコロナが来て、それから逃げるようにアメリカに行ったのに。今思えば歩くことはできたんだけど、当時は正しい判断ができない状態で、結局チームを解散して日本に帰国することになって。それが初めてのロングトレイル失敗でした。
それからしばらく海外に行く機会がなくなって、国内遊びにシフトしました。バイクパッキングをしたり、釣りに力を入れたり。2022年の春になってようやく海外に行ける雰囲気が出てきたけれど、そのときはもう大きなチャレンジよりも、アメリカの大陸でのびのびと遊びたいという気持ちの方が強くなっていました。
それで、1,200kmという適度な距離で、三大トレイルより難易度は低めだけど、トレイルカルチャーがしっかりしているアリゾナ・トレイルを選びました。
── アリゾナ・トレイルは、どんなトレイルですか?
河戸: 名前の通りアリゾナ州を南北に縦断するトレイルです。南のメキシコ国境から北のユタ州境まで800マイル、約1,200km。季節によって歩く方向が変わって、暑くなる前なら北上する。冬にかけて歩くなら南下する。今回は春だったから僕は北上しました。
アリゾナ・トレイルは基本的に砂漠地帯を通ります。ただし、標高が高いので雪も降る。僕が歩いたときも何度か雪に遭遇しました。日中は35度ほどまで上がり、夜はゼロ度近くまで下がります。夜はダウンジャケットが必要なほどの寒さになります。
砂漠地帯なので、水の確保が最も重要な課題になるんですけど、経験を積むことでそれに対する不安は小さくなる。トレイルのラインは比較的標高の低いところを通っていて、いかに効率よく水を確保し、次の給水ポイントまでつなげていくか。
初めは、次の水場が見つからないかもしれないという不安から焦ってしまいがちだけど、トレイルを歩き続けるうちに、確実に水場があることが分かってくる。その区間に必要な水だけを持っていけば十分だと理解して、今回は水の問題で困ることはまったくありませんでした。
──トリプルクラウン経験者として、アリゾナ・トレイルはどう感じましたか?
河戸:1回RPG(ロールプレイングゲーム)をクリアして、装備品と能力を引き継いだまま、またゲームを始めるような感覚。経験も豊富だし、装備もCDT仕様だからオーバースペックなくらい。コミュニケーションも地図の読み方も完璧で、コロナ以外は不安要素がない状態でした。
──アリゾナ・トレイルのどんな思い出が印象に残っていますか?
河戸:一番印象に残っているのは、最後のグランドキャニオン。本当に久しぶりにネパールを思い出しました。ネパールのでかすぎる山と同じぐらい、あんなでっかい谷を見たことがない。まさに地球が割れている風景に圧倒されて。
面白いのは、砂漠のど真ん中にある割れ目なのに、下の方は電気と水道が通っている。昔の探検隊が一つずつ電気を通し、水も通して、馬が通れる橋を作って...別に金塊があるわけじゃないけど、地図を埋めたいがために歩いた記録が残っている。初めて自然の中にある人工物との調和に感動しました。
ニュートラルな体へ
トレイル生活での足との対話
── ベアフットシューズ(Vivobarefoot)でのトレイルはいかがでしたか?
河戸:初日は「すごく足が軽い!」と思って、いつも通り40kmほど歩いてしまった。そうしたら次の日から徐々に痛みが出てきて...軽い打撲のような感じだったのかな。3日目にして早くも後悔。結局、2日ほどホテルで休養を取ることにしました。
── ロングトレイルに入る2年程前からベアフットシューズを履いていても、自分の足がそれに慣れているとは感じませんでしたか?
河戸:日本でできてなかったことって言うとやっぱり距離。1日のうちにどれぐらい足の裏に衝撃を受けるか、衝撃の蓄積に対する耐久性が初体験だったから、足の裏が耐えられなかったんだと思います。回復する前にさらに新しいダメージを受けちゃうっていう状況で、そこは最初想定外だったしたし、日本で体験できていなかった。
早くも3日目で、足の裏が純粋に痛い。歩き過ぎて痛い。昔感じたことがあるような、一番最初にトレイル行ったときみたいな痛さ。とにかく休憩が必要で、治してまた歩き始めてってことをやってるうちに、どんどんそのスパンが短くなってきて。1ヶ月後ぐらいには1日歩いても痛くなくなりました。足がこの強さを持つまで、最初の負荷は和らげた方がいい。
── 足との対話が始まったんですね。
河戸:そう、「早く強くなってくれ」という気持ちで足と接していました。でも不思議なことに、すごく苦しいわけではなくて、ちゃんとケアすれば対応できるという感触はありました。足の裏の皮がボロボロになって剥けていったけど、新しい皮ができて、古い皮が剥がれるみたいな。それでいて、予想に反して皮膚が硬くなるわけでもなく、むしろ柔らかくなったような..。
それで、痛みの時期を乗り越えると、良い意味でニュートラルな状態になりました。爆発的なパワーは出ないけれど、自分の体力通りの結果が出るようになった。
── ベアフットシューズでの歩行について、もう少し詳しく教えてください。
河戸: ベアフットシューズはシチュエーションが変わるたびに、新しい歩き方を学ばなければいけない。例えば岩場ならまた違う歩き方が必要になる。その歩いている場所や環境に合わせて、自分の歩き方、自分の行動を変えていくっていう行為な気がします。不用意な歩き方をしないようにさえ気をつければ、安定感はすごくありました。
何よりも靴底が薄いがゆえに、土の形状とか、湿度すら分かる。それは結構面白い。今までの普通のシューズだと、岩の形とか、ここはネッチョリしてるとか感じてなかったけれど、Vivoだと足の裏から地形情報がずっと入ってくるみたいな感覚。
1,200kmのアリゾナ・トレイルを歩くって、旅行というよりは日々の生活に近いから、何かしら刺激があるってことは結構幸せなことだった。生活にひとつスパイスが加わったような感じ。
距離感と思い出を刻む
トレイル上で絵を描く意味
── トレイル上で時間は距離であり、距離はお金より大切とのことでしたが、今回トレイル上で時間を割いてたくさん絵を描かれていますね。
河戸:1,000kmくらいの全長だと、1日でどれくらい進んだか感覚的に分かる。30分休んでも到達に影響しないことが分かるから、心に余裕を持って歩けたし、絵も描けた。トレイルのシチュエーションも理解しているから、夜歩きなどで時間や距離を調整できて、絵も落ち着いて描くことができたと思います。
── 河戸さんにとって、トレイルで絵を描くことの意味とは?
河戸:みんなには、「日記みたいな記録」だと言っているけど、絵を描くことって、どこかトレイルと似ているところがあると思います。
ロングトレイルって、序盤は本当に手探り。4日ほど歩いても、この先トレイルがどれくらいあるのか分からないし、これが自分にとってどんな意味を持つのかも見えてこない。それでも歩き続けていると、自分の中に確かな距離感が刻まれていって、重ねてきた日々が思い出となって、すごく大切なものになっていく。
絵も同じで、最初の1週間くらいはあまりやる気が出ないし、楽しくもない。でもどんどん描いていくうちに、それが少しずつ溜まっていって、自分だけの記録になっていく。後半になると、むしろ描かないと気持ち悪くなってくる。そうなると、スケッチブックの束が完成したときが待ち遠しくて仕方ない。絵を描くこと自体より、歩きながら絵を描くという行為に特別な意味があると、僕は感じています。
歩くことは人生の一部
ロングトレイルは宝探し
── 歩いてるときはどんなことを考えていますか?
河戸:よく聞かれる質問なんですけど、年々変わってきてます。以前は、嫌だったことや恥ずかしかった昔の思い出が、突然よみがえって凹んだりしてたけど、考える時間が多すぎて逆にあまり考えなくなったというか...。何を考えていたか思い出せない時間も多い。たまに、はっと我に返って、また少し考えごとをする。
以前は「トレイルが終わったら貯金もないし、どうしよう(汗)」って不安になったりしていたけれど、今はもう「戻るところもないし、今まで通りでいいか(笑)」って。日々を楽しく過ごすことを大切にしています。音楽を聴いたり、ポエムを書いたり(笑)。より自由な形で楽しめるようになったかな。
── ロングトレイルを歩くことは、河戸さんにとってどういう意味を持つのでしょうか?
河戸:おそらく僕は移動が好きなんです。車でも電車でも。見知らぬ土地の一点からスタートして、まったく見たことない土地に向かって歩き始めるという行為に、すごくワクワクする。つまらない過程も含めて、自分の足で移動することが好き。
もしロングトレイルを歩くのに才能が必要だとしたら、すごい体力とか運動神経のセンスとかより、ただ歩くことが好きっていう才能。アリゾナ・トレイルもすごく退屈な砂漠セクションが多いから、歩く行為自体が楽しくないと、トレイルは多分成り立たない。
── 生き方に重なる部分もあるかな、と。
河戸:よくロングトレイルは人生だとか言うけど、僕にとってはもっとシンプルなものな気がしています。歩いて解決する人生だったら僕はとっくに成功してる(笑)。歩くことは人生の一部として、この経験を自分のこれからの人生に活かしたい。だから毎年は歩かない。絵とか、自分で何か作ったりとか、別の形に昇華したい。
ロングトレイルは宝探しみたいなもの。自分のやりたいもののヒントも見つけられるし、日本にずっと居ては見つからない新しいものに出合える。見つからないかもしれないというのもまた面白い。それがロングトレイルです。
*参照:https://www.mountainsandme.ca/post/the-tear-vs-at-pct-cdt-stats
**参照:https://www.aldhawest.org/triple-crown
PROFILE
河戸良佑
リョウスケイワシ Ryosuke Kawato a.k.a Sketch
兵庫県出身。イラストレーターとして活動しながら、毎年、数千キロの山道をハイキング旅している。現在は主に北米のトレイルを探索中。ハイキングの他にバイクパッキング、フライフィッシング、スケートボードなど多趣味。アパレルブランド「HIKER TRASH」ディレクター。
アメリカの3大トレイル=パシフィック・クレスト・トレイル(PCT 約4200km)、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT 約5000km)、アパラチアン・トレイル(AT 約3500km)すべてを踏破した”トリプルクラウナー"。トレイルネーム(トレイル上のニックネーム)は「スケッチ」。